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来季から巨人の監督選任!度重なる怪我に泣いた無冠の天才バッター!プリンス《高橋由伸》

高橋由伸

 

読売ジャイアンツ 選手兼任コーチ #24
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2009年8月25日、横須賀球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市中央区
生年月日 1975年4月3日(40歳)
身長
体重
180 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1997年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1998年4月3日
最終出場 2015年10月17日
年俸 1億5,000万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
 
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年

 

 

【経歴】

 

①野球嫌いだったが卓越したセンスを発揮する幼少期

 

千葉県千葉市中央区出身。右利きだが、3歳の頃から誰に言われるでもなく自然と左打ちだった

小学校4年生で地元少年野球チームへ入団すると同時に、6年生ばかりのレギュラーに唯一入れられる。

入団前から同じグラウンドで練習していた高橋を観ていた監督が、動きやスイングの速さなどに卓越したセンスを感じたためであった。

5年生時には3番・ショートとしてチームの県大会初優勝、6年生時には4番・エースとして2連覇に貢献。

 

野球そのものはあまり好きでもなく、父や兄弟など周囲が喜んでくれるので続けていた面もあったと後に語っている。

プロ野球選手にはなりたいともなれるとも全く思わず、プロ入りを考え始めたのも大学2年生頃になってからであった。

当時から人前に出るのが苦手であり、目立つことを嫌っていた。

 

中学のポニーリーグ時代は4番・エースとしてチームを全国大会2連覇に導く。

途中、「野球を辞めたい」と言っては父親と兄の2人に力ずくでグランドまでひきずって連れていかれたり、嫌だと騒いでは兄の暴力を受け、よく泣きながら練習に向かっていたという。

中学3年時の成績は26試合の出場で打率.559、17本塁打、65打点。

ここで野球を辞め、将来を見据えて学業に集中しようと考えたが、「あと3年だけお父さんを楽しませてくれ」という父の要望で甲子園を目指すことを決める。

 

 

②さらにセンスを磨き、スター性を発揮する高校・大学時代

 

勉強と両立出来るという理由、特に憧れであった慶應義塾大学入学への近道として、和あったスカウトの中から神奈川の名門・桐蔭学園高等学校を選択し入学。

投手として入学したが、監督から打撃と強肩を活かす右翼手への転向を薦められる。

1年生時から3番・右翼手のレギュラーの座を掴み、このころから勝負強さの片鱗を見せていた。

第73回全国高等学校野球選手権大会で3回戦に進出するも、鹿児島実業とあたりサヨナラ負けを喫する。

当時の同僚には高木大成(2学年上)や副島孔太(1学年上)がいた。

 

4番打者となり、投手を兼任するようになった2年時の1992年にも第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。

沖縄尚学とあたり、本塁でのクロスプレーで左太股の肉離れを起こしたが、8回からリリーフ投手として登板。

結果、延長12回でまもサヨナラ負けを喫し、1回戦敗退。最後は足の痛みで歩けなくなり、チームメイトに担がれながらマウンドを下りた。

その後、怪我と腰痛治療のために2週間の入院を余儀なくされたが、退院後にはチームメイトから厚い人望により翌年の主将に任命される。

先輩である副島孔太は「口で引っ張っていくのではなく、日常の自然な練習態度や言動から気がつけば周囲に人が集まっている、という独自の雰囲気を持っていた」としている。

 

3年時には強打者を1番に据えるという監督の方針により1番打者を務めるも、甲子園には出られなかった。

1.2年時の甲子園通算打率は.400高校通算30本塁打

 

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ピッチャー高橋由伸(第74回全国高等学校野球選手権大会1回戦 対沖縄尚学高)(平成4年8月10日) - YouTube

 

ヤクルトなど複数のプロ球団からスカウトされていたが、慶応進学という入学当初からの目標は変わらず、慶應義塾大学へ指定校推薦で進学する。 

慶應義塾大学野球部では1年時からレギュラー。春季リーグ戦の開幕1試合目から5番・三塁手として出場、ルーキー新記録の3本塁打を放つ。

 

 

 

3年時の春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して三冠王を獲得。

4年時には主将に就く。相手が勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠も目立つ中、春季リーグ戦でチームを9季ぶりのリーグ優勝に導く貢献。

秋季リーグでは田淵幸一が持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新して歴代1位となる通算23本塁打を放つ。

リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し366打数199安打、62打点、打率.325。通算219塁打は歴代1位。

 

日米大学野球においても日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を打つなど活躍。

インターコンチネンタルカップでも大学生ながら日本代表の4番打者として出場。

国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で決勝点となる3点本塁打2点三塁打を放つなど、優勝に大きく貢献。

甘いマスクと走攻守を兼ね備えた六大学のスターとして高い人気を誇っていた。

 

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1997 CUBAを倒した夏 - YouTube

 

 

④プロ入り後1年目から活躍し球界のスター選手へ

 

ドラフトに際して9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。

最終的に、11月4日に読売ジャイアンツ1位で逆指名入団した。

 

 

▶︎1年目(1998年)

入団当初より監督の長嶋茂雄から「21世紀のスター」として期待され、開幕戦に7番・右翼手で先発出場し、いきなりプロ初安打を放つ。

オールスターゲームファンの投票では新人最多の51万4351票で選出され、以降7年連続で出場した。

最終的に打率.300、19本塁打、75打点、OPS.852の好成績を収めてシーズンを終えた。

プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり。さらに新人での満塁本塁打3本は史上初だった。

新人王候補にも名前が挙がったが、新人王は中日の川上憲伸が受賞。この年の川上との直接対決の成績は22打数1安打(1本塁打)であった。

新人王は獲得できなかったが、新人王に値する成績と認められ、異例とも言えるセ・リーグ特別表彰を受賞した。

守備でも強肩を活かしてリーグ最多タイの12捕殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞。以降6年連続で受賞した。

同年、監督の長嶋から「ウルフ」のニックネームが与えられた。

 

 ▶︎2年目(1999年)

オープン戦で6本塁打を記録した勢いそのままに開幕戦から3試合連続本塁打を放ち、4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。

5月5日にはプロ2年目で巨人第66代の4番打者に指名される。以後チームメイトの松井秀喜、ヤクルトのロベルト・ペタジーニと熾烈な本塁打王争いを展開。

しかし、9月14日の中日戦での守備の際に外野フェンスに激突し、鎖骨骨折の重傷を負ってチームから離脱

自身は打率.315、34本塁打(リーグ6位)、98打点を記録。初のベストナインに選出された。

オフには年俸6100万円増の1億円でサイン。史上最速の年俸1億円到達となった。

 

▶︎3年目(2000年)

シーズン前半戦は前年の骨折の影響もありプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。

MKT砲」と称された3番高橋、4番松井、5番清原の強力クリーンアップの一員として

リーグ優勝・日本一に貢献。

プロ入り初の全試合・フルイニング出場を果たすも、3年目で初めて打率3割を下回った。

 

▶︎4年目(2001年)

前年同様、シーズン序盤にスランプに苦しむ。それで広島から移籍してきた江藤智とともに3番・6番を任され、2年連続で全試合出場

8月1日の中日戦では川上憲伸からプロ通算100号本塁打を放つ。打率も2年ぶりに3割をクリアした。

シーズン後には台湾で開催された第34回IBFワールドカップの日本代表に選出された。

 

▶︎5年目(2002年)

8月3日の広島戦(旧広島市民球場)では新井貴浩が放った打球をフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱

その復帰戦第1戦となった9月16日の横浜ベイスターズ戦では同様のフェンス際の打球でジャンピングキャッチを決めた

本塁打・打点は35試合欠場した影響で前年から大幅に成績を下げてしまうが、2年連続で打率3割をキープした。

 

▶︎6年目(2003年)

この年より選手会長に任命される。

松井のメジャー・リーグ移籍により中堅手へコンバート、清原の欠場もあり初めて開幕戦を4番で迎えた。

途中腰痛で戦線を離脱したものの、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立し、打率は自己最高の.323を記録。

6月1日の阪神戦では当時無敗を誇っていたジェフ・ウィリアムからサヨナラ本塁打を打ち、シーズンの唯一の黒星を付けた

7月15日のオールスターゲームでは2打数2本塁打3打点の活躍で自身初のオールスターMVPを受賞。

また、シーズン後にはアテネ五輪の予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会に出場し、首位打者となった。

 

▶︎7年目(2004年)

近鉄から移籍してきたタフィ・ローズ中堅手を譲る。

開幕からシーズン途中に開催されたアテネ五輪まで継続して4番打者を務める

五輪では日本代表の3番・センターと副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を打つなど活躍。台湾代表戦では王健民から貴重な同点2点適時本塁打を放った

しかし、五輪で肘の遊離軟骨状態が悪化。肘に痛みを抱えながらのプレーで守備面では送球に精彩を欠き、ゴールデングラブ賞をプロ入りして初めて逃した。

打撃面では5年ぶりに30本塁打を記録、打率も4年連続で3割をクリアした。

9月29日の広島戦では長嶋茂雄の849試合目に次ぐ史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000安打を達成。

オフには右肘の手術を受け、球団合併問題では巨人の選手会長、また日本プロ野球選手会の副会長として署名活動など大きく貢献した。

 

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アテネオリンピック 高橋由伸 王建民から同点ホームラン - YouTube

 

▶︎8年目(2005年)

シーズン序盤の広島戦での守備中、旧広島市民球場のフェンスに登った際に右肩肩甲下筋の肉離れを起こして離脱。

その後、7月8日の広島戦でフェンスに右足首を強打し再び離脱。

3年前と合わせて3度も同じ球場、同じフェンス際の打球の処理で怪我に遭ったため、復帰後の広島戦では球場のフェンス際に清めの塩を撒いたという。

その後も右足首は回復しないまま骨棘が形成され、痛みを抱えた状態で試合に出続けたが、88試合の出場に留まり、プロ入り以来はじめて規定打席を割る。

オフに右足首の手術を受けた。

 

▶︎9年目(2006年)

手術により調整が遅れ、オープン戦には中盤から参加。

監督に最就任した原辰徳の「守備の要であるセンターラインを守ることでチームを引っ張っていってほしい」という方針から再び中堅手にコンバート。

右足首の状態は開幕に間に合うかどうかというものであったが、開幕から好調なスタートを切った。

しかし、4月12日の広島戦にてセンターの守備でダイビングキャッチの際、左脇腹の肉離れを起こし約1ヶ月の離脱。

復帰して半月ほどたった5月27日のロッテ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷。

度重なる負傷の本来の打撃や守備を取り戻すことができず、後半戦からは守備の負担を軽減させるため初めて左翼手の守備についた。

8月18日の中日戦で1000試合出場を達成

前年に出術した右足首の状態が悪いままプレーを続けたこともあり、2年連続で規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。

 

▶︎10年目(2007年)

開幕戦から1番・右翼で起用される。

横浜との開幕戦で三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放ち、セ・リーグ史上初、45年ぶりの開幕戦初級先頭打者本塁打を放ち、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位の3年連続開幕戦本塁打を記録。

4月28日、FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。

6月以降は右足首痛が悪化するもそのまま出場を続け、6月には打率.408、8本塁打、18打点、OPS1.347を記録し4年ぶりとなる月間MVPを受賞。

7月26日の横浜戦ではプロ野球新記録となるシーズン9本目の初回先頭打者本塁打を記録。

1年を通じて大きなケガや長期離脱もなくプレーし、3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ6位の打率.308を記録。

8年ぶりのベストナインに選ばれ、4年ぶりのゴールデングラブ賞も獲得。

1番打者として出塁を意識し、自己最高の66四球・出塁率.404を記録する一方で、初球打ちの打率.441、自己最多の35本塁打を記録した。

本塁打王は惜しくも1本差で逃した。OPS.982、得点圏.409は12球団トップ。

また、この年で10年連続2桁本塁打も達成、巨人では長嶋茂雄王貞治原辰徳松井秀喜に次ぐ5人目となった。

 

▶︎11年目(2008年)

前年に続き「1番右翼」で開幕スタメン。

4月3日の中日戦では川上憲伸からバースデーアーチとなる3ラン本塁打を放ち、4月6日の阪神戦では史上52人目となる250本塁打を放った。

開幕から好調を維持し、4月下旬から4番として起用されるも、5月3日のヤクルト戦で腰痛を再発させ登録抹消。

6月15日に1軍復帰するも8月7日に再び戦線離脱。ベンチ入りしても出場しない試合もあり、日本シリーズは欠場。

91試合での出場で打率.236と自己ワーストの成績に終わる。また、プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が.299となった。

オフには腰の精密検査を行い、手術も検討したが引き続きリハビリによる改善を目指すことにした。

 

▶︎12年目(2009年)

この年から生え抜き野手最年長となったが、腰痛が改善せず春季キャンプでは初の2軍スタート。

シーズン終盤の8月28日の阪神戦で復帰し、9回に代打で登場したものの藤川球児に対し見逃し三振に終わる。

翌29日に出場選手登録を外れ、腰の手術を受ける事を表明。

来季の開幕復帰を見据え9月15日に手術を受け、わずか1打席でシーズンを終えた。

 

▶︎13年目(2010年)

自主トレから慎重に調整を行い、春季キャンプでは一軍に入る。

オープン戦では5割近い打率を記録し、開幕戦にキャリア初となる「8番一塁」で出場。

この年には同じく初となる2番打者も経験。中盤以降は右翼手や代打での起用が増えた。

腰の状態を気にしながらの出場で規定打席には届かなかったが、1年を通して116試合に出場。(うち先発が76試合)

CSも含め、本塁打を打った試合ではチームは全勝出塁率.364得点圏打率.325、CSでの打率は.375と選球眼や勝負強さは健在であった。

 

▶︎14年目(2011年)

レギュラー再奪取を目標に掲げ、開幕戦に「5番右翼」でスタメン出場。

しかし、4月26日のヤクルト戦の守備で外野フェンスに激突して負傷交代、29日に登録を抹消。

故障明けの6月11日に再登録。7月10日には史上108人目となる1500安打を達成。

8月20日には3年ぶりに4番として先発、10月12日には自身8年ぶりのサヨナラ本塁打を放った。

しかし、シーズンを通じては95試合出場で打率.246、15本塁打、37打点という成績に終わり、規定打席にも届かず。

一方で、OPSは.829と規定打席到達者の中でリーグトップだった長野久義(.847)と遜色ない成績を残した。

契約更改では当時の球団史上最高のダウン額となる1億8000万円減の推定1億7000万円でサインした。

更改後の記者会見では「今年も後がないと思ってやってきたし、来年も同じ気持ちでやっていきたい」との決意を口にした。

 

▶︎15年目(2012年)

開幕前のインタビューで「体の衰えが技術で補えなくなっている」と発言したが、開幕戦に「6番右翼」としてスタメン出場。

わずか4打席の差で5年ぶりの規定打席到達は逃したが、大きな怪我もなく1年間を通して一軍に帯同。

シーズン打率.239、8本塁打に終わったものの、出塁率は3割5分を越え、満塁の場面では.538、2本塁打、21打点と勝負強さが光った。

8月17日の広島戦で史上37人目となる300本塁打を達成した。

クライマックスシリーズ全試合にスタメン出場し、日本シリーズでは、3戦目に阿部慎之助が負傷したため4戦目に4番でスタメン出場した。

 

▶︎16年目(2013年)

「6番左翼」で開幕戦を迎える。

4月4日の横浜線でシーズン初安打となる三塁打を放ち、二塁を回った際に左ふくらはぎを痛め途中交代。肉離れで全治三ヶ月と診断された。

故障の影響で68試合の出場に留まったものの、打率.303、10本塁打OPS.950を記録。

2年ぶりに2桁本塁打を記録し、規定打席不足ながらOPS傑出度は自己最高の数値を記録した。

日本シリーズでは6試合に出場し、第6戦に田中将大から決勝タイムリーを放つなど勝負強さを発揮したものの、打率.150、OPS.427と不調に終わり、チームも日本一を逃した。

 

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2013年日本シリーズ 巨人VS楽天 6戦目 高橋由伸 第3打席 センター前タイムリーヒット - YouTube

 

▶︎17年目(2014年)

シーズン前半は代打の切り札としてチームを支え、代打での打点は柳田敏郎の球団記録にあと1に迫る17打点を記録した。

夏場からは先発出場が増え、クリーンアップを任される試合もあった。

8月18日、高橋にバッティングの礎を叩き込んだ父が心不全で死去。その告別式の翌日にも試合に出場し、ソロホームランを放った。

しかし、8月24日の中日戦でスイングした際に右手中指を脱臼し、25日に登録を抹消され、そのまま復帰できないままシーズンを終える。

出場試合数こそ多くないが、前年に続き衰えを感じさせない成績を収めた。

 

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高橋由伸 亡き父に棒げるバックスクリーンへのソロホームラン! 2014 8 23 GvsD - YouTube

 

▶︎18年目(2015年)

選手兼一軍打撃コーチとしてシーズンを迎える。

6月11日の日本ハム戦で、NPB史上55人目となる通算3000塁打を達成した。

翌シーズンも現役続行の意向を示していたが、クライマックスシリーズ敗退を受けて今季限りでの勇退を表明した原の後任として球団より監督就任要請を打診された。

10月23日に、翌2016年シーズンからの監督就任を受諾することを報告、同時に2015年シーズンをもって現役を引退することを表明した。

今季の代打成績は47試合で38打数15安打の打率.395、9打点。出塁率は.489という驚異的な数字を誇り、現役引退を惜しむ声も多い。

 

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「覚悟を持ってまい進」 巨人・高橋新監督が会見 - YouTube

 

▶︎ 個人年度別成績はこちら(2015年度シーズン終了現在)


 
所属球団
 

 

 

 

 







 

 

 



 

 

 

 

 



 




1998 読  売 126 515 466 65 140 32 1 19 231 75 3 2 1 5 36 7 85 5 .300 .496 .356
1999 読  売 118 505 454 71 143 18 2 34 267 98 3 3 2 2 39 8 96 3 .315 .588 .378
2000 読  売 135 577 519 89 150 29 1 27 262 74 5 3 3 3 46 6 87 11 .289 .505 .352
2001 読  売 140 605 543 88 164 26 0 27 271 85 3 2 1 5 49 7 85 14 .302 .499 .364
2002 読  売 105 454 409 63 125 18 0 17 194 53 1 3 2 3 27 13 70 7 .306 .474 .365
2003 読  売 118 486 443 85 143 31 1 26 254 68 3 1 0 2 38 3 59 7 .323 .573 .379
2004 読  売 109 477 426 83 135 20 1 30 247 79 1 3 1 1 38 11 70 12 .317 .580 .387
2005 読  売 88 360 325 50 97 15 0 17 163 41 1 0 0 0 30 5 54 8 .298 .502 .367
2006 読  売 97 390 350 45 91 14 1 15 152 51 1 0 2 5 25 8 64 5 .260 .434 .320
2007 読  売 133 590 503 76 155 29 1 35 291 88 1 5 3 2 66 16 107 3 .308 .579 .404
2008 読  売 91 311 275 38 65 11 0 17 127 41 1 0 0 1 30 5 76 3 .236 .462 .322
2009 読  売 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000
2010 読  売 116 332 280 30 75 9 0 13 123 56 2 0 0 6 44 2 75 6 .268 .439 .364
2011 読  売 95 301 256 35 63 13 0 15 121 37 0 1 1 0 40 4 64 9 .246 .473 .357
2012 読  売 130 442 368 30 88 17 0 8 129 56 2 3 1 4 61 8 77 14 .239 .351 .356
2013 読  売 68 197 165 23 50 6 1 10 88 34 0 0 0 0 31 1 34 4 .303 .533 .416
2014 読  売 72 130 112 8 32 4 0 6 54 29 0 0 0 2 14 2 30 0 .286 .482 .369
2015 読  売 77 158 133 11 37 5 0 5 57 21 2 0 0 1 20 4 39 3 .278 .429 .386
  通 算 1819 6831 6028 890 1753 297 9 321 3031 986 29 26 17 42 634 110 1173 114 .291 .503 .366

 

 

【表彰】

ベストナイン:2回(1999年、2007年)

ゴールデングラブ賞:7回(1998年~2003年、2007年)

・月間MVP:5回(1999年4月、2000年8月、2001年8月、2003年6月、2007年6月)

セ・リーグ会長特別表彰(1998年)

オールスターゲームMVP:1回(2003年 第1戦)

オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2004年 第1戦)

・東京ドームMVP:1回(1998年)

・優秀JCB・MEP賞:1回(2003年)

 

 

高橋由伸の人柄】

 

 

 

▶︎とにかくチームメイトに慕われている!!

高橋由伸のドラマがスゴイ! - NAVER まとめ

 

▶︎愛される理由とは?

巨人のベテラン、高橋由伸 選手が愛される理由とは?

  

▶︎弱点は、優柔不断なところ?!

原辰徳氏も懸念 高橋由伸監督の性格「逃げ道作るところある」 - ライブドアニュース