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プロ野球Wikipedia

戦後のプロ野球選手のデータをどんどん更新していきます

北京五輪で3つのエラー!しくじり先生に出演した、元ロッテのマッスルスラッガー《G・G佐藤》

G.G.佐藤

 

G.G.佐藤 (佐藤 隆彦)
2013chibalotte ggsato.jpg
QVCマリンフィールドにて(2013年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県市川市
生年月日 1978年8月9日(37歳)
身長
体重
184 cm
98 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 2003年 ドラフト7巡目
初出場 2004年3月30日
最終出場 2013年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2008年

 

 

【経歴】

 

①プロ入り前

 

1978年に千葉県市川市で生まれる。

小学校時代から野球を始め、行徳のリトルリーグに在籍。このときチームメイトには相川亮二がいた。

中学時代は野村沙知代がオーナーを務めていた「港東ムース」に在籍し、桐蔭学園高等学校から法政大学に進学。

大学時代は内野手としてプレーするがレギュラーの座を奪うことができず、本塁打も通算で1本のみだった。

 

 

フィリーズ傘下時代

 

大学卒業後、マイナーリーグフィラデルフィア・フィリーズ1Aに入団。

大学時代から引き続き内野手としてプレーしていたが、フィリーズ1Aで強肩に見込まれた捕手にコンバートされた。

 

 

③西武時代

 

2002年に帰国したのち、受けた西武ライオンズの入団テストで伊東勤に見出され、

2003年のドラフト会議では西武が7巡目指名で交渉権を獲得し契約金2,000万円、年俸700万円(金額は推定)で入団合意した。

 

 

▶︎2004年

45試合に出場し、打率.298の数字を残した。プロ初本塁打を含む3本塁打も記録。

プロ入り後は捕手登録だったが大学時代に本職だった内野手一塁手)、指名打者で起用され、捕手登録でありながら捕手としての出場は2軍でも無かった。

8月25日には長打力を買われ3番・指名打者でスタメン出場した。

 

▶︎2005年

捕手が多いというチーム事情から打撃に専念するため、この年から正式に内野手(主に一塁手)となり、さらに同年後半から外野手に再転向

2軍では打率.372・13本塁打と好成績を収めていたが、一軍では打率.214と振るわず、前年より出場機会を減らす結果となった。

 

▶︎2006年

シーズン開幕から外野手登録されたため、プロ入り3年目で捕手・内野手・外野手の3通りで登録されたことになる。

伊東監督から「キャンプで最も成長した選手」として名前を挙げられるなど実力をつけ、初の開幕スタメンの座を勝ち取り、打率4割を越え首位打者を争う活躍を見せた。

しかし突然の打撃不調に陥り、打率.250付近まで下がってしまい、広島から移籍した福地寿樹の活躍などもあり、6月2軍降格。

外野手登録されたことで守備時の動きを軽くしようと、趣味のウエイトトレーニングを控えて体重を減らしたことが後半のスタミナ不足につながった。

2軍では打率.310でチームトップの11本塁打を放つなど格の違いを見せつけ、9月19日に再昇格されるも活躍できず、10月3日に再降格されてシーズンを終えた。

 

▶︎2007年

オープン戦で前年と同じように打ちまくり、5本塁打を放つなど好調ぶりをアピールして、開幕一軍入りを果たした。

起用に応えて開幕戦・開幕2戦目と2試合連続本塁打を放った。

7月にはアレックス・カブレラが離脱したため空位になった4番候補に和田一浩らとともに名前が挙げられ、調子を上げていたG.G.佐藤が抜擢されて7月11日から4番を任されカブレラ、和田が不振の時にはクリーンナップを任された。

後半に少し調子を落としたが右翼手のレギュラーは譲らず、初めて1年を通して一軍に帯同し、規定打席に初到達

本塁打もリーグ5位の25本と量産し、長打率はリーグ4位の.510と5割を越えるなど、中軸打者として活躍した。

この年は年間通じて失策を一つも犯さず、守備率10割を達成した。規定打席到達者で年間無失策だったのは、両リーグ通じて大村直之G.G.佐藤の2人だけだった。

捕殺数でもリーグ外野手部門4位を記録するなど、肩の強さも見せた。

 

▶︎2008年

12球団で最後となる契約更改でスタート。

4月8日に人生初のサヨナラ本塁打を打った。その際、報道で同年1月中旬に一般女性と結婚していたと報じられた。

5月の月間成績で打撃3部門すべてリーグトップに立ち(打率.389・9本塁打・23打点)、初の月間MVPを受賞。

移籍した和田の穴を完璧に埋める活躍を見せた。4月10日から16日までプロ野球タイ記録(10人目)となる6試合連続二塁打をマークした。(翌年に金子誠が更新)

5月22日・23日には3打席連続本塁打を記録した。

7月7日発表のオールスターファン投票結果では、セ・パ通じての最高得票数(367,837票)を獲得して初選出、同年から始まった選手間投票でも476票を集め、全選手通じてのトップだった。

交流戦に入っても好調さは変わらず、北京オリンピック野球日本代表・外野手として追加招集され、その後メンバーに選出される。

しかし準決勝の韓国戦と3位決定戦のアメリカ戦で失点につながる場面で計3失策し、チームもメダル獲得を逃した。

精神的ショックから帰国後の球団からメンタルカウンセリングを受けることも検討されたが、最終的には渡辺久信監督の意向により行われたなかった。

チーム復帰後の数試合は出場したが、骨膜炎(再検査で疲労骨折と判明)によって9月16日から登録抹消となった。

クライマックスシリーズ日本シリーズの登録メンバーからも外された。

この年も契約交渉が長引き、結局2年連続で12球団最後の契約更改者となった。

 

▶︎2009年

前半戦は打率.260とあまり活躍は目立たなかったが、9月にはリーグトップの打率.400・9本塁打で2度目の月間MVPを帆足和幸と同時受賞した。

終盤の活躍で成績を一気に上げ、打率.291・25本塁打(リーグ4位)・83打点(同6位)を記録した。

 

▶︎2010年

正式に左翼手へコンバートされる。

オープン戦首位打者で開幕を迎えたが、打率が2割前後と低迷、三振率の悪化も目立ち、7月2日に2度目の二軍落ちするとそのまま昇格することなくシーズンを終えた。

9月には両ひじと左肩のクリーニング手術と苦しい1年だった。

 

▶︎2011年

若手起用というチーム方針によって一軍昇格することなく、10月9日に戦力外通告を受けた。

 

www.youtube.com

G.G.佐藤 マー君からバックスクリーンへ23号2ラン! L-E 9月25日 - YouTube

 

 

④イタリア時代・クラブチーム時代

 

2012年からイタリアンベースボールリーグのフェルティチュード・ボローニャ1953と契約した。

 

 

42試合の出場で打率.319(リーグ14位)、3本塁打(同13位タイ)、22打点(同23位タイ)、OPS.847(同16位タイ)の好成績を残すが、チームの遠征に帯同しなかったことなどを理由に8月21日に解雇された。

 

www.youtube.com

G.G.佐藤 2012年5月5日 ボローニャ対ノヴァーラ戦第4打席 - YouTube

 

2012年9月26日に富山県のクラブチーム、ロキテクノベースボールクラブへの入団が発表された。

 

 

 

⑤ロッテ時代・現役引退

 

1月25日、千葉ロッテマリーンズの入団テストに合格し、12月19日に入団会見を行った。背番号は「48」。登録名は「G.G.佐藤」。

 

 

▶︎2013年

3月30日のオリックス戦に代打で出場し日本球界復帰後初安打を放った。

その後不振で二軍落ちとなるが。一軍復帰後、8月24日の楽天戦では辛島航から日本球界復帰後初本塁打満塁本塁打で飾った。

最終的には30試合の出場にとどまったが、10月23日楽天とのクライマックスシリーズでは同じく辛島航から一時は逆転となる3ランを放った。チームは敗退となってしまったが、印象に残る活躍を見せた。

 

▶︎2014年

一軍出場がなく、10月5日に球団から戦力外通告を受け、その後現役引退を表明。

 

www.youtube.com

【プロ野球】 ロッテ GG佐藤 逆転3ランホームラン 【CS】 2013年10月21日 - YouTube

 

▶︎年度別個人成績はこちら(2015年シーズン終了時点)


 
所属球団
 

 

 

 

 







 

 

 



 

 

 

 

 



 
2004 西  武 45 63 57 9 17 2 0 3 28 8 0 0 0 1 4 1 17 1 .298
2005 西  武 37 59 56 3 12 3 0 2 21 3 0 0 0 0 2 1 17 3 .214
2006 西  武 45 138 133 18 33 6 0 4 51 17 2 0 0 0 3 2 42 1 .248
2007 西  武 136 542 486 65 136 31 3 25 248 69 7 7 0 2 38 16 103 13 .280
2008 埼玉西武 105 432 388 62 117 30 1 21 212 62 1 3 0 2 31 11 62 11 .302
2009 埼玉西武 136 556 502 69 146 34 0 25 255 83 1 1 1 1 43 9 121 20 .291
2010 埼玉西武 53 179 162 13 33 4 0 6 55 19 1 1 0 4 12 1 52 1 .204
2013 千葉ロッテ 30 54 51 6 13 5 0 2 24 9 0 1 0 0 3 0 15 3 .255
  通 算 587 2023 1835 245 507 115 4 88 894 270 12 13 1 10 136 41 429 53 .276

 

【表彰】

・月間MVP:2回(2008年5月、2009年9月)

JA全農Go・Go賞:1回(強肩賞:2008年9月)

 

 

野球人生を変えた、北京五輪での3つのエラー

 

テレビ朝日系のバラエティー番組「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演。

星野ジャパンのメンバーとして参加した2008年北京五輪で犯した3つの失策原因について語った。

 

 

本番に超弱かった」という佐藤氏。

もともマイナス思考だったこと

08年にはオールスターで目立つために7月にピークを合わせるなど、追加招集で準備不足だったこと

さらにはその年の本職・右翼ではなく五輪では左翼で起用されたこと

などを要因として挙げた。

 

1つ目のエラー 準決勝・韓国戦。2-0とリードした4回

レフト線の打球をトンネルした。このエラーで「もう飛んでくんな!」と思ってしまったという。

 

2つ目のエラー 同試合 2-4と逆転されて迎えた8回。

これ以上の失点は防ぎたかった場面で、左中間へ大飛球。

打球を追いながら「センターの青木が捕ってくれないかな…」と思い、青木宣親外野手に向かって「アオキ!」と叫んだという。

結局は自身が落下地点に入ったのだが痛恨の落球。適時失策となった。この後のことは「記憶が全くない」と振り返る。

 

3つ目のエラー 3位決定戦・米国戦 4-1とリードして迎えた3回

韓国戦で戦犯となった佐藤氏は「先発メンバーからは外れるだろうと思い、気持ちが切れていた」というが、星野監督はミスを取り返させてやろうと同じ左翼として先発起用。

佐藤氏は「弱気はだめだ。強気にいこうと気持ちを切り替えた」と言う。

遊撃と左翼の間に上がった飛球に対し猛チャージ。最後は背走してきた遊撃の中島裕之内野手に対し「どけ!ショート」と叫び、結局は落球してしまった

気合が空回りし「う見ても自分の守備範囲と違う場所のボールを強引に捕りにいって落としてしまった」とのこと。

 

また、帰国後の大バッシングについても振り返った。

妻に対しては「死にたい」とメールしたという。

バッシングされた理由についても分析。チームメート、球団、西武以外の野球ファンに嫌われていたことが原因だったとした。

 

西武時代にチームメートと食事した回数が3回だったことを明かし、グランドで結果さえ出せばいいと考えていたという。

自分を大きく見せるたえに一匹狼を気取っていたと明かした。球団とは毎年、年俸交渉でもめた。

西武以外のファンには「なんか調子乗ってるな」と思われていたことなどもあり、バッシングが広がったという。

 

「本番に強い人なんて、この世に一人もいない。

不安があるからこそ、人は努力できるんだと思います。

マイナスなことは口にせず、良いイメージを持って、自分を信じて、

不安と仲良く付き合いながら自分自身に勝っていってもらいたいなと思います。」

というのが佐藤氏の教訓。

 

 

【その他の情報】 

 

・登録名の「G.G.」の由来は、中学時代に同級生から「猫背で顔がジジくさい」と言われたためである。(ジジ→爺→G.G.)

 

 

・西武時代のヒーローインタビューでは「キモティーーーッ!」と絶叫するパフォーマンスを行っていた。

2007年7月7日のソフトバンク戦でのヒーローインタビューと同時にで自身の肉体がプリントされた「キモティーシャツ」が限定300枚で販売された。

 

 

・2007年4月28日のロッテ戦でヒーローインタビューを受けた際、2007年における自身のキャッチフレーズを「ファンを愛し、ファンに愛される選手になりたい」思いから「愛の波動砲G.G.佐藤」と宣言した。

 

 

・現役引退後は、父親が社長を務める株式会社トラバース(住宅の測量・地盤の改良が主な業務)に就職することなった。2014年12月現在の肩書は「開発営業部マネージャー」。