ソフトバンク復帰後、初勝利!日本で1643日ぶりの白星《和田毅》
【和田毅】
福岡ソフトバンクホークス | |
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カブス時代(2015年)
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 島根県出雲市 |
生年月日 | 1981年2月21日(34歳) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 180 lb =約81.6 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2002年 自由獲得枠 |
初出場 | NPB / 2003年4月1日 大阪近鉄バファローズ戦 MLB / 2014年7月8日 シンシナティ・レッズ戦(ダブルヘッダー第2試合) |
年俸 | $ 4,000,000 (2015年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年、2008年 |
WBC | 2006年 |
【経歴】
①東京六大学奪三振記録を更新し、ドクターKと呼ばれた早稲田大学時代
1981年、母親の実家である山形県で生まれ、幼少期は愛知県で過ごす。
野球を始めたのは愛知県江南市藤里小学校1年のとき、地元の「江南団地野球」に入ったのがきっかけ。
1991年、島根県出雲市へ転居。高校は父の実家に近い浜田高校に進学する。
1997年、第79回全国高等学校野球選出権大会に2年生エースとして出場。
初戦でエース、石川雅規を擁する秋田商と対戦するが、サヨナラ負けを喫する。
翌1998年、第80回全国高等学校野球選手権大会ではベスト8に進出。
前年の秋に上腕三頭筋を断裂していることもあり、直球はこの当時120km/h程度であったが、
対戦した帝京高校の選手は「150km/hに見えた」と証言している。
1998年夏準々決勝 豊田大谷vs浜田 6/21 - YouTube
同級生のトレーナーと試行錯誤を重ねて、フォームにさらに磨きをかけた。それにより高校時代には130km/hにも満たなかった球速が2ヶ月で140km/hを超えるまでになっている。
2年春から先発陣に仲間入りし、群を抜くペースで三振を奪い話題を集めた。2002年には江川卓の持っていた東京六大学野球連盟奪三振記録443を更新し、通算476奪三振まで記録を伸ばした。
早稲田の「ドクターK」と呼ばれ、プロ注目の投手として各球団が争奪戦を展開した。
4年時はエースとして早大52年ぶりの春秋連覇達成に貢献し、2季連続でベストナインに選出。
リーグ通算62試合登板27勝13敗、防御率1.35、476奪三振。27勝は、早大の左投手として最多。
己に厳しくひたむきな練習姿勢は下級生の鳥谷敬・青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らに影響を与え、それが早大野球部史上初の4連覇を達成する元となった。
②ソフトバンク時代
ドラフトでは自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。
入団の理由に、秋山幸二の引退試合での、福岡のファンの温かさへの感動を挙げている。
また、実際に福岡ドームに試合を観戦しに行き、熱い声援が早慶戦に似ていたことも挙げている。
▶︎2003年
新人離れした投球術で1年目から先発ローテーションの一角を担い、優勝に貢献。
14勝(5敗)を挙げ、新人王を満票で獲得。
阪神タイガースとの日本シリーズでは3勝3敗で迎えた第7戦に先発し、史上初めて新人で完投し、日本一の胴上げ投手となった。
年末のアジア野球選手権には出場。
▶︎2004年
アテネオリンピックに選出され銅メダル獲得に貢献。
シーズンでは「2年目のジンクス」がないと言われていたが、相次ぐ怪我に悩まれ10勝6敗、防御率4.35と不本意な成績となった。
それでも、被打率はリーグ最低の.228だった。
▶︎2005年
この年から出雲市内の少年野球チームを対象とした「和田毅杯少年野球大会」を私費で開催し、優勝チームは副賞として福岡ドーム開幕戦に招待している。
トレーナーと正式に専属契約を結び、福岡ソフトバンクホークス初の開幕投手として勝利。
その後12勝(8敗)をあげ、ホークスでは1960年の杉浦忠以来となる新人から3年連続の2桁勝利を達成。
12月20日には入団4年目の選手の年俸としては松阪大輔の1億4000万円を抜いて史上最高額となる1億4500万円(推定)で契約更改。
12月10日にタレント・女優の仲根かすみと入籍したことを発表。
▶︎2006年
ルーキーイヤー以来の14勝を挙げた他、6完投を記録し、完封も3つもマークした。
また防御率ではプロ入り初の2点台をマークした。
▶︎2007年
完封がなく完投も2つに減り10敗を喫したが、12勝を挙げ石川雅規に並び入団から5年連続の2桁勝利を達成。ホークスとしては杉浦忠以来45年ぶりの記録となった。
オフにはアメリカのロサンゼルス市内の病院で内視鏡による左ひじ遊離軟骨の除去出術を受けた。
▶︎2008年
オールスター前までに8勝を挙げ、北京オリンピック日本代表に選出された。
6年連続2桁勝利も期待され、チーム復帰後の防御率は3.18と安定した投球を続けたものの、初めて2桁勝利に届かなかった。
オフには和田との自主トレを志願した藤岡好明、岩崎翔、他チームだが大嶺祐太と一緒に自主トレを行った。
▶︎2009年
自身2度目の開幕投手と務め、完封勝利を挙げた。プロ野球最多タイでパ・リーグ新である開幕戦14奪三振を記録。
5月28日登板を最後に肘の炎症で長期離脱を余儀なくされてしまった。
9月に復帰して最終戦の10月11日に先発登板し、5月22日以来の勝ち投手となった。
しかし、最終成績は4勝5敗とプロ入りワーストの成績で終わってしまった。
▶︎2010年
4月8日のロッテ戦で自己最多である15奪三振(9回1失点完投勝利)を記録。
6月12日の読売ジャイアンツ戦で交流戦最多の通算18勝目を挙げる。
9月8日の楽天戦で自己最多更新の15勝目を挙げた。ロッテ戦では24イニング無失点を記録。
9月23日のロッテ戦で17勝目を挙げ、新人王以来となるタイトル、自身初の最多勝を獲得しチームの7年ぶりの優勝に大きく貢献。初のMVP・ベストナインにも選出された。
この年はチームメイトの杉内俊哉も16勝を挙げ、NPBでは17年ぶり、パ・リーグでは51年ぶり、球団としては62年ぶりの同一チームの左腕2投手での15勝以上を記録。
ロッテとのCSファイナルステージでは第2戦に先発し9回を1失点に抑え、完投勝利した。
第6戦では4点ビハインドの6回から登板し、2回を無失点に抑えたが、打線が成瀬善久の前に得点を奪えず、チームはCS敗退となった。
▶︎2011年
2年ぶりの開幕投手に指名され、5月3日の楽天戦から7月6日の西武戦までプロ入り初の7連勝、8月3日のオリックス戦で通算100勝目を達成。
シーズン中も杉内俊哉、D.J.ホールトン、攝津正らと並ぶ先発の柱としてフル稼働し16勝をあげた。
11月3日のCS第1戦目に登板し勝ち投手となり、チームのリーグ連覇と8年ぶりの日本一に貢献した。
11月30日にはこの年取得した海外FA権行使の申請を行った。
会見ではメジャーリーグ全球団から先発して投げられることを優先して移籍先を探したいと述べ、アラン・ニーロを代理人とした。
和田が15奪三振!完投勝利 4月8日 ソフトバンク9-1ロッテ 試合ハイライト - YouTube
③オリオールズ時代
2011年12月14日にボルチモア・オリオールズと2年総額815万ドル(3年目は年俸500万ドルの球団オプション)の契約を結んだ。
背番号は大学時代以来10年ぶりとなる18となった。
▶︎2012年
スプリングトレーニングでは左ひじの違和感を訴え2試合の登板に終わり、4月4日に15日間の故障者リスト入りして開幕を迎える。
その後は傘下のマイナーで調整を続けていたが、21日にスプリングトレーニング中に痛めた箇所とは違う箇所い左ひじ痛を発症。
24日に左ひじ靭帯損傷が見つかり、5月1日のルイス・ヨーカムによるセカンドオピニオンでも左ひじ靭帯の部分断裂が確認され、7日に60日間の故障者リストへ異動。
11日にトミー・ジョン手術を受け、そのままシーズンを終えた。
オフの11月2日に故障者リストから外れた。
▶︎2013年
2月下旬に手術後初めてのブルペンでの投球を始めたが、スプリングトレーニングでの登板ではなく3月31日の再び15日間の故障者リスト入りした。
4月4日に60日間の故障者リストへ異動し、開幕を迎える。
5月からAAA級ノーフォーク・タイズでの登板を果たしたが、前半戦は11試合の先発で2勝5敗、防御率5.82、WHIP1.53の成績を喫する。
後半戦は8試合の先発で3勝1敗、防御率2.03、WHIP1.31と好投を続けたが、メジャに昇格することなくシーズンを終える。
翌年の契約オプションは更新されず、11月2日に自由契約となった。
④カブス時代
2013年12月19日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだことが発表された。
▶︎2014年
スプリングトレーニングに招待選手として参加したが、1先発を含む3試合の登板で7失点を喫した。
3月23日に自由契約となり、翌24日に契約内容を変更したマイナー契約でカブスと再契約し、AAA級アイオワ・カブスで開幕を迎えた。
開幕から2試合に先発し、13回1/3で7安打1失点の成績で、4月14日にはパシフィック・コストリーグ4月第1週の週間MVPを受賞した。
6月22日にメジャー契約となり40人枠入りし、7月8日にメジャー昇格。
同日のダブルヘッダー2試合目となったレッズ戦に先発起用されメジャーデビュー。5回を投げ5安打、自責点なしの投球を見せたが、後続の投手が逆転され勝敗はつかなかった。
その後一時降格したが、すぐに再昇格し7月28日のロッキーズ戦では7回1失点でメジャー初勝利を挙げた。
その後は先発ローテーションに定着。この年は13試合に登板し、4勝4敗、防御率3.25だった。
オフの11月3日にカブスと年俸400万ドル+出来高の1年契約に合意。翌シーズンから背番号67から18へ変更することも発表した。
10月8日には日米野球2014の追加メンバーとして発表され、京セラドーム大阪での第2戦と沖縄セルラースタジアム那覇での親善試合で中継ぎ登板した。
▶︎2015年
スプリングトレーニングのレンジャーズ戦で左太ももを痛めて降板し、4月5日に15日間の故障者リストに入った。
5月20日のパドレス戦で初登板したが、6月22日のドジャース戦で左肩に異常を訴え3回途中で降板。
28日の左肩三角筋の炎症で15日間の故障者リストに入ることが発表された。
7月初旬から傘下のマイナーでリハビリ登板を始めたが、8月4日にマイナー・オプションを行使されAAA級アイオワに降格。
9月1日に昇格するが、昇格後は1試合のリリーフ登板に終わる。
チームはワイルドカードのポストシーズン出場を果たしたが、ポストシーズンのロースターからは外れる。
10月11日にDFAとなり40人枠から外れ、19日に自由契約となった。
▶︎MLBでの通算成績はこちら
登板→21 先発21 中継ぎ1
勝敗→5勝5敗
防御率→3.36
和田毅、7回無失点好投で今季初勝利(日本時間2015年6月18日) - YouTube
▶︎NPBでの個人年度別成績はこちら(2011年度シーズン終了時)※太字はリーグ最多
年 度 | 所属球団 | 登 板 | 勝 利 | 敗 北 | セ │ ブ | 完 投 | 完 封 勝 | 無 四 球 | 打 者 | 投 球 回 | 安 打 | 本 塁 打 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 暴 投 | ボ │ ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | |
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2003 | 福岡ダイエー | 26 | 14 | 5 | 0 | 8 | 2 | 0 | 781 | 189 | 165 | 26 | 61 | 1 | 195 | 1 | 0 | 77 | 71 | 3.38 | |
2004 | 福岡ダイエー | 19 | 10 | 6 | 0 | 7 | 0 | 0 | 534 | 128 | .1 | 110 | 23 | 38 | 3 | 115 | 2 | 0 | 67 | 62 | 4.35 |
2005 | 福岡ソフトバンク | 25 | 12 | 8 | 0 | 4 | 0 | 1 | 741 | 181 | .2 | 154 | 17 | 57 | 2 | 167 | 4 | 0 | 69 | 66 | 3.27 |
2006 | 福岡ソフトバンク | 24 | 14 | 6 | 0 | 6 | 3 | 3 | 657 | 163 | .1 | 137 | 18 | 42 | 1 | 136 | 2 | 0 | 57 | 54 | 2.98 |
2007 | 福岡ソフトバンク | 26 | 12 | 10 | 0 | 2 | 0 | 0 | 757 | 182 | 168 | 15 | 42 | 5 | 169 | 6 | 1 | 65 | 57 | 2.82 | |
2008 | 福岡ソフトバンク | 23 | 8 | 8 | 0 | 3 | 0 | 2 | 671 | 162 | 167 | 12 | 36 | 3 | 123 | 3 | 0 | 65 | 65 | 3.61 | |
2009 | 福岡ソフトバンク | 15 | 4 | 5 | 0 | 1 | 1 | 0 | 337 | 84 | .1 | 72 | 13 | 24 | 1 | 87 | 1 | 0 | 39 | 38 | 4.06 |
2010 | 福岡ソフトバンク | 26 | 17 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 696 | 169 | .1 | 145 | 11 | 55 | 1 | 169 | 2 | 0 | 59 | 59 | 3.14 |
2011 | 福岡ソフトバンク | 26 | 16 | 5 | 0 | 4 | 2 | 2 | 726 | 184 | .2 | 145 | 7 | 40 | 4 | 168 | 5 | 0 | 33 | 31 | 1.51 |
通 算 | 210 | 107 | 61 | 0 | 36 | 8 | 9 | 5900 | 1444 | .2 | 1263 | 142 | 395 | 21 | 1329 | 26 | 1 | 531 | 503 | 3.13 |
【タイトル】
・最多勝:1回(2010年)
【表彰】
・MVP:1回(2010年)
・新人王(2003年)
・日本プロスポーツ最高新人賞:2003年
・毎日スポーツ人賞新人賞:2002年
・ベストナイン:1回(2010年)
・ゴールデンスピリット賞:1回(2006年)
・セ・パ交流戦優秀選手:1回(2010年)
・オールスターゲーム優秀選手賞:2回(2003年第1戦、2004年第2戦)
・アサヒスーパードライベストプレイヤーアワード(2010年)
【来季からソフトバンクホークス復帰!!】
2015年11月7日に福岡ソフトバンクホークスが獲得を発表。5年ぶりの復帰となった。
背番号は元々付けていた21にきまった。
▶︎復帰会見、一問一答
【プロ野球】和田「選択間違っていない」 ソフトバンク復帰会見、一問一答(1/2ページ) - 産経WEST
日本ハム斎藤絶句、和田の復帰に「ホークス強い…」 (日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
▶︎川崎も復帰?!
なんJ PRIDE : 和田毅(34)、川崎宗則(34) ソフトバンク復帰か
【その他の情報】
・鳥谷敬のサインのデザインを考案したのは和田である。プロ入り以降も和田が考案したサインを使い続けている。
ちなみに大隣憲司のサインも和田が考案したものである。
・2005年から投球数×10本(勝利投手で20本加算、完封で30本加算)のワクチンを特定非営利活動法人「世界の子どもにワクチンを日本委員会(JVC)」を通じて寄付している。
2006年からはACジャパンのワクチン支援キャンペーンに選ばれ、2008年までCM放送されていた。
これにより、2005・06年の2年間で10万本以上のワクチンを寄付している。この活動を評価され、第8回(2006年)ゴールデンスピリット賞を受賞した。
JVCの代表の細川佳代子は和田の活動に「寄付の革命を起こした」と高く評価している。
AC【公共広告機構】07'ワクチンCM 『僕は、つづける。』/和田毅 - YouTube
・出雲市の青少年スポーツ振興に毎年300万円を寄付している。
2011年8月30日に福島県高野連へマイクロバス1台を寄贈する事を発表した。
「ほんと優しいですよ。ホークス時代、エラーしてマウンドに謝りに行くと「大丈夫。抑えるから」と言ってくれた。」
と評されているなど、ソフトバンク時代は投手、野手問わず後輩から慕われていた。
【その他のソフトバンク選手情報】