来季から中日二軍監督!現役最後までフルスイングを貫いたサムライ《小笠原道大》
【小笠原道大】
中日ドラゴンズ #36 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県千葉市美浜区 |
生年月日 | 1973年10月25日(41歳) |
身長 体重 |
178 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 一塁手、三塁手、捕手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト3位 |
初出場 | 1997年4月8日 |
最終出場 | 2015年9月21日 |
年俸 | 4,500万円(2015年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴
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監督歴
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年 |
WBC | 2006年、2009年 |
【経歴】
①プロ入り前
7歳から野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーする。
暁星国際高等学校に進学したが、入学時は全くの無名の選手だった。
高校進学と共に二塁手にコンバートされ、その後チーム事情から捕手に再転向。
(ただし、本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという)
今でこそ球界屈指の強打者として知られているが、高校通算本塁打は0本で、県内でも注目された選手ではなかった。
高校卒業後はNTT関東に入社。
ポジションは「仮に選手としてダメでもカベ(ブルペン捕手)で残れるから」という理由で捕手を続けた。
後に日本ハムでも同僚となる立石尚行とバッテリーを組んで活躍した。
1996年には第67回都市対抗野球で立石と共に新日鐵君津の補強選手となり、チームのベスト8入りに貢献。
②日本ハム時代
1996年、日本ハムファイターズより3位指名を受ける。
入団会見では「首位打者を取れるような打者になりたい」と宣言した。
▶︎1年目(1997年)
高校時代に中堅手以外のポジション全てを守っていたことから、「コンビニルーキー」と称される。
ルーキーイヤーながら開幕一軍入りを果たし、内野手登録だったものの23試合で捕手としてスタメンマスクを被る。
▶︎2年目( 1998年)
それまでの内野手登録から捕手登録に変更される。
主に代打の出場だったが、打率.302と好成績を残す。
▶︎3年目(1999年)
打撃を活かすために一塁手に転向しポジション争いの結果、一塁手の座を勝ち取る。
足の速さを買われ2番に定着し、一切バントをしないことから「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイク。
打率.285(リーグ7位)、25本塁打(リーグ5位)、81打点(リーグ6位)などリーグ内でも上位の成績を残す。
▶︎4年目(2000年)
打率.329(リーグ3位)、31本塁打(リーグ4位)、102打点(リーグ4位)を記録。
リーグ新記録(当時)の126得点、球団新182安打(当時)をマークして最多安打のタイトルを獲得。
また、リーグ3位の24盗塁を記録、トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。二ケタ盗塁を記録したシーズンはこの年のみである。
▶︎5年目(2001年)
シーズン当初の打順は主に2番や3番を任されていたが、後半から1番に定着。
ロッテの福浦和也との熾烈な首位打者争いを繰り広げ惜しくも敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録。
本塁打は前年を上回る32本塁打、打点は86打点と前年を下回った。
前年に続きパ・リーグ最多安打を記録(195安打)。シーズン両リーグで歴代2位(当時)であり、イチロー以来、史上2人目となる複数年での180安打以上も記録した。
また、アレックス・カブレラ、松中信彦、福浦を抑えてベストナイン一塁手部門を受賞した。
▶︎6年目(2002年)
新ストライクゾーン導入もあり、他の打者が成績を落とす中で打ちまくり、打率.340で前年惜しくも逃した首位打者を獲得。
本塁打は32、打点は81と前年と同程度だった。
しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶え、この年からやや故障に苦しむようになった。
▶︎7年目(2003年)
チーム事情から三塁手に転向。
打率.360という高打率で2年連続で首位打者を獲得すると同時に最高出塁率(出塁率.473)のタイトルを獲得。
また、31本塁打(リーグ7位)、100打点(リーグ7位)を記録し2000年から4年連続で3割・30本塁打を達成。
▶︎8年目(2004年)
アテネオリンピック野球日本代表に招集された影響や骨折による戦線離脱で本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。
それでも、打率は.345で5年連続3割を記録した。
7月24日に社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000安打を達成。
また、打率.345を記録したことで4年連続で打率.330以上を記録している。
▶︎9年目(2005年)
自己最多の37本塁打を記録。
しかし、前半戦の、特に、交流戦の大不振が響き、6年ぶりに打率を3割を切った。
三振も自己最多の114三振を記録。
▶︎10年目(2006年)
3月3日から20日、第1回WBCに出場。第1ラウンドで日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライで3打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。
レギュラーシーズンでは主に一塁を守り、32本塁打・100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに自身初のパ・リーグMVPにも輝き、ファイターズ44年ぶりの日本一に貢献した。
③巨人時代
2006年シーズン中にFA権を取得し、シーズン終了後にFA権を行使。
日本ハムから残留要請を受ける一方、読売ジャイアンツからも入団の誘いを受けた。
契約年数、家族との同居が可能であることが決めてとなり巨人入団を正式に発表。
日本ハム時代のトレードマークだった髭を剃り落として入団会見に臨んだ。
巨人側は小笠原の髭について「無理強いするつもりはない」として容認する考えだったが、
小笠原本人が「巨人軍のしきたりに従う」として自ら剃り落とした。
▶︎1年目(2007年)
5月28日、自身初の1試合3本塁打を記録。
7月24日、移籍後初めて4番を任された。
9月15日、史上4番目の速さで通算1500本安打を達成。
最終的には3割30本を達成。前年に続いての2年連続MVPを獲得。
セ・パ両リーグでのMVP受賞は江夏以来2人目であり、野手として史上初。
▶︎2年目(2008年)
左膝の手術の影響もあり、前半戦は通算の打率は.250前後に低迷していた。
しかし、試合に出場し続けることで7月頃に「(本人曰く)スイッチが入った」ように復活。
シーズン終盤9月の月間MVPを受賞したり、前年・前々年に匹敵する成績を残した。
9月3日、史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)となるサイクル安打を達成。
9月19日、史上35人目となる通算300号本塁打を放った(球団史上8人目)。
10月23日、クライマックスシリーズ第2ステージの対中日戦で、クライマックスシリーズ新記録となる1試合6打点を記録した。
▶︎3年目(2009年)
3月5日から24日、第2回WBCに2対会連続で出場。主に5番打者として全試合に出場し、日本の2連覇に貢献する活躍を見せた。
シーズンでは年間通して3番に座り安定した働きを見せ、チームのリーグ3連覇に貢献。移籍後初の3割30本塁打100打点を記録した。
8月27日に通算1000打点を、9月8日に通算1000得点を達成した。
▶︎4年目(2010年)
打率.359、9本塁打29打点の好成績で通算8度目となる3、4月の月間MVPを受賞。
5月30日、史上24人目の通算350本塁打を達成。
6月4日、日本ハム戦で本塁打を放ち、史上18人目となる全球団から本塁打を達成。
最終的には3割30本を記録し、移籍後4年連続の3割30本と、王貞治の17年連続、落合博満の13年連続に次ぐ11年連続のOPS.900以上を達成した。
▶︎5年目(2011年)
新外国人の加入、亀井義行の三塁手起用・小笠原の負担軽減などを視野に入れて一塁手に固定。
5月5日、通算2000安打を達成。通算1736試合での2000安打達成は歴代4番目の早さとなる。
しかし、相次ぎ故障や不調に苦しみ、83試合の出場にとどまり打率.242、5本塁打、20打点で1988年以来13年ぶりに規定打席に到達しなかった。
▶︎6年目(2012年)
開幕スタメンで出場するも前年同様打撃不振に苦しみ、プロ入り最小の34試合の出場に留まり、打率.152、15ぶりにシーズン無本塁打となった。
12月5日の契約変更ではNPB史上最大の減額となる3億6000万円減の年俸7000万円で変更。
▶︎7年目(2013年)
キャンプ中のケガにより開幕を二軍で迎えた。
復帰後、6月5日に自身2年ぶりの本塁打となるサヨナラ3ラン本塁打を放った。
しかし、6月29日の登録抹消後はケガなどあってこと後の一軍昇格はなかった。
22試合の出場で、打率.250、本塁打1本に終わった。
小笠原 道大 全盛期の凄すぎる内角打ち ホームラン 巨人 ジャイアンツ 2008 - YouTube
④中日時代 現役引退
2013年シーズン終了後の11月10日にFA宣言する意思を表明。
11月26日に中日への入団が発表され、同日入団会見が行われた。
▶︎1年目(2014年)
シーズンを通して代打の切り札として起用される場面が多かったが、開幕直後は森野将彦が休養日の際のスタメン、
代打6打数連続安打(歴代3位)・代打9打席連続出塁(歴代2位)を記録。
打席数は100打席に満たなかったものの打率.301をマークする活躍を見せた。
また、巨人時代に剃っていた髭もトレードマークとして再び生やしている。
▶︎2年目(2015年)
主に代打で53試合に出場し、打率.294を残した。
9月15日、中日新聞の紙上において今季限りで現役を引退することが報じられ、同17日に名古屋市内で記者会見を行い、
正式に今季限りで現役を引退することを表明した。
10月3日に2016年シーズンより二軍監督に就任することとなり、10月5日からのフェニックスリーグより指揮を執る。
【野球】中日、小笠原復活を彷彿とさせるホームラン! - YouTube
▶︎個人年度別成績はこちら(2015年シーズン終了現在)※太字はリーグ最多
年 度 | 所属球団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 長 打 率 | 出 塁 率 |
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1997 | 日本ハム | 44 | 98 | 94 | 7 | 21 | 10 | 2 | 0 | 35 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 10 | 2 | .223 | .372 | .245 |
1998 | 日本ハム | 71 | 98 | 86 | 7 | 26 | 5 | 0 | 1 | 34 | 9 | 1 | 1 | 0 | 1 | 11 | 0 | 17 | 3 | .302 | .395 | .378 |
1999 | 日本ハム | 135 | 608 | 547 | 90 | 156 | 34 | 4 | 25 | 273 | 83 | 3 | 4 | 0 | 4 | 56 | 0 | 84 | 6 | .285 | .499 | .349 |
2000 | 日本ハム | 135 | 635 | 554 | 126 | 182 | 23 | 4 | 31 | 306 | 102 | 24 | 6 | 0 | 5 | 74 | 2 | 91 | 6 | .329 | .552 | .406 |
2001 | 日本ハム | 140 | 643 | 576 | 108 | 195 | 40 | 2 | 32 | 335 | 86 | 1 | 6 | 0 | 0 | 63 | 4 | 102 | 8 | .339 | .582 | .407 |
2002 | 日本ハム | 135 | 574 | 486 | 77 | 165 | 27 | 2 | 32 | 292 | 81 | 8 | 1 | 0 | 6 | 76 | 6 | 77 | 6 | .340 | .601 | .430 |
2003 | 日本ハム | 128 | 546 | 445 | 83 | 160 | 34 | 1 | 31 | 289 | 100 | 8 | 3 | 0 | 3 | 93 | 5 | 65 | 13 | .360 | .649 | .473 |
2004 | 北海道日本ハム | 101 | 452 | 377 | 78 | 130 | 19 | 2 | 18 | 207 | 70 | 3 | 1 | 0 | 2 | 70 | 3 | 70 | 10 | .345 | .549 | .449 |
2005 | 北海道日本ハム | 133 | 580 | 514 | 91 | 145 | 27 | 2 | 37 | 287 | 92 | 2 | 1 | 0 | 1 | 61 | 4 | 114 | 8 | .282 | .558 | .362 |
2006 | 北海道日本ハム | 135 | 579 | 496 | 77 | 155 | 31 | 1 | 32 | 284 | 100 | 4 | 3 | 0 | 8 | 73 | 2 | 85 | 8 | .313 | .573 | .397 |
2007 | 読 売 | 142 | 617 | 566 | 95 | 177 | 33 | 1 | 31 | 305 | 88 | 4 | 0 | 0 | 4 | 43 | 4 | 98 | 10 | .313 | .539 | .363 |
2008 | 読 売 | 144 | 589 | 520 | 93 | 161 | 27 | 1 | 36 | 298 | 96 | 0 | 2 | 1 | 5 | 56 | 7 | 105 | 14 | .310 | .573 | .381 |
2009 | 読 売 | 139 | 580 | 514 | 78 | 159 | 25 | 1 | 31 | 279 | 107 | 2 | 1 | 0 | 2 | 60 | 4 | 107 | 8 | .309 | .543 | .384 |
2010 | 読 売 | 137 | 591 | 510 | 83 | 157 | 24 | 1 | 34 | 285 | 90 | 1 | 0 | 0 | 5 | 73 | 3 | 101 | 9 | .308 | .559 | .394 |
2011 | 読 売 | 83 | 314 | 281 | 21 | 68 | 12 | 0 | 5 | 95 | 20 | 1 | 3 | 0 | 2 | 27 | 4 | 66 | 4 | .242 | .338 | .315 |
2012 | 読 売 | 34 | 99 | 92 | 4 | 14 | 3 | 0 | 0 | 17 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 5 | 0 | 22 | 1 | .152 | .185 | .194 |
2013 | 読 売 | 22 | 40 | 36 | 2 | 9 | 2 | 0 | 1 | 14 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | 1 | 7 | 2 | .250 | .389 | .300 |
2014 | 中 日 | 81 | 99 | 83 | 4 | 25 | 6 | 0 | 1 | 34 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 14 | 1 | 16 | 1 | .301 | .410 | .404 |
2015 | 中 日 | 53 | 59 | 51 | 2 | 15 | 3 | 0 | 0 | 18 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 0 | 10 | 1 | .294 | .353 | .373 |
通 算 | 1992 | 7801 | 6828 | 1126 | 2120 | 385 | 24 | 378 | 3687 | 1169 | 63 | 33 | 2 | 53 | 867 | 50 | 1247 | 120 | .310 | .540 | .389 |
【タイトル】
・首位打者:2回(2002年・2003年)
・本塁打王:1回(2006年)
・打点王:1回(2006年)
・最多安打:2回(2000年・2001年)
・最高出塁率:1回(2003年)
【表彰】
・MVP:2回(2006年・2007年)※両リーグでのMVP獲得は江夏以来2人目、リーグを跨いでの2年連続は史上初。
・ベストナイン:7回(一塁手部門:1999年・2001年・2006年 三塁手部門:2003年・2004年・2007年・2009年)
・ゴールデングラブ賞:6回(一塁手部門:1999年~2002年・2006年 三塁手部門:2003年)
・月間MVP:8回(2000年8月、2001年8月、2002年4月、2003年5月、2004年7月、2008年9月、2009年5月、2010年3,4月)
・パ・リーグ会長特別賞:1回(2000年)※リーグ最高記録のシーズン126得点により受賞(両リーグ歴代5位)
【その他情報】
①愛称「ガッツ」の由来
日本ハム時代につけられた愛称である。
名付け親は当時チームメイトだった岩本勉、上田佳範、片岡篤史、建山義紀、金村暁、金子誠の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女性に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだという。
その後小指を骨折した状態でホームランを打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる。
②松坂大輔から初めて点を奪った!
1999年4月7日、松坂大輔のプロ初登板初先発では8回に松坂のプロ初失点初被弾となる2点本塁打を浴びせた。
1999.4.7 日本ハムvs西武2回戦 24/30 - YouTube
③小笠原が巨人に残した伝統
「1日1日、自分ができることを精いっぱい」 小笠原道大が巨人に残したもの | Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―
④中日移籍の秘話
小笠原 落合GMに口説かれた「オレが現役時代につけた3と6」 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
⑤来季から中日二軍監督!
▶︎早速指揮をとる!
中日小笠原が2軍監督就任 5日から指揮も「不安」 (日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
▶︎谷繁監督との関係性について
中日関係者が心配する谷繁監督と小笠原二軍監督の“冷たい関係”
【引退特集】
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