来季からDeNA監督! 外国人選手史上初の2000安打を達成した最強の助っ人《アレックス・ラミレス》
横浜DeNAベイスターズ 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | ベネズエラ |
出身地 | 首都地区 ミランダ州カラカス |
生年月日 | 1974年10月3日(41歳) |
身長 体重 |
180 cm 100 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 左翼手 |
プロ入り | 1991年 アマチュア・フリーエージェントとしてクリーブランド・インディアンスと契約 |
初出場 | MLB / 1998年9月19日 NPB / 2001年3月30日 |
最終出場 | MLB / 2000年9月27日 NPB / 2013年10月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴
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監督・コーチ歴
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【経歴】
①プロ入り前からメジャー昇格まで
実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニュンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。当地の人口は約200人で、うち4分の3ほどラミレスの一族だという。
5歳のときに兄の影響で野球を始め、8歳のときに地元のリトルリーグの監督にスカウトされ、15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。
当時は主に投手を務めていたが、18歳のときにベネズエラの国内選手権に出場した際にたまたま外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりチームと契約する。
②メジャー時代
1998年はAAA級バッファロー・バイソンズで121試合に出場。
34本塁打103打点6盗塁、打率.299と結果を残し、9月19日に初のメジャー昇格を果たした。同日にメジャーデビューしたが1打数1三振に終わった。
2000年7月28日にトレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍。
しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。
ラミレスによれば「打撃コーチに打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。
③ヤクルト時代
2000年11月1日、ヤクルトスワローズに入団。背番号は3。
当時、フロリダ州で家を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけで日本で金を稼いで、(ローンを)返済したらすぐに戻る」つもりだったという。
1年目の2001年から打率.280・29本塁打・88打点の好成績をマーク。
当初の契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼に勝てない」と感じ、左翼手に転向したとのこと。
同年のチームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
2003年はジャイアンツに移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座る。
打率.333・40本塁打・124打点で打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。
来日3年目で初の3割達成となった。
2004年8月21日の阪神戦では、ランニング本塁打を放った。
この年は故障離脱もあったが打率.305、31本塁打、110打点の成績を残した。
終盤には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあって残留。
その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。
2005年は3割は逃したが、引き続きチームの4番打者としてチームに貢献した。
2006年は26本塁打・112打点を記録するものの、636打席で19四球を記録するなど選球眼の悪さが露呈し、出塁率.289は両リーグで最低だった。
2007年10月4日の横浜戦において、外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200安打を達成。安打数は最終的に204安打まで達した。
打率.343、122打点をマークして、100打点・200安打・打率.300以上の「100・200・300」を同時達成し、日本プロ野球史上唯一の記録となった。
この記録は確実性と長打力に加えてケガに強い耐久性を兼ね備えていることの証ともいえる。
④巨人時代
シーズン終了後に球団側との契約交渉が決裂したことで退団が決まり、11月30日に自由契約公示。
12月29日、読売ジャイアンツへの入団が成績に発表された。
背番号は「3」だと長嶋茂雄の永久欠番となっている事情から、「5」となった。
ラミレスは以前から「巨人では外国人選手が大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は一番行きたくないチームだった。
しかし、巨人がラミレス自身が希望する複数年契約を提示したことに加え、ラミレス自身が原辰徳の指揮に以前から興味を持っていたこともあって巨人入りを決めたという。
▶︎2008年
開幕から5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕から結果を残したことと、4番候補の不振により、主に4番で起用されるようになった。
前年の打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得。2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。
日本シリーズでは併殺打が多く全体的には物足りない成績ではあったものの、2本の本塁打など随所で勝負強さを見せ、敢闘賞を受賞した。
この年にフリーエージェント資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。
▶︎2009年
144試合全てで4番に座り、前年に続く活躍。
3割30本100打点を達成したほか、打率.322で自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。チーム3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。
巨人の右打者の首位打者獲得は1971年の長嶋茂雄以来38年ぶりである。
日本シリーズで、観戦に来た小笠原道大の娘にファウルボールを当ててしまうが、翌日「ゴメンナサイ」と書いた自身のサインボールを小笠原に渡した。
▶︎2010年
好不調の波が少なかった過去2年と違ってシーズン当初は低打率に苦しんだが、その中でも得点圏においては勝負強い打撃を見せ、本塁打と打点を量産。
夏場に入ると一気に調子を挙げて打率も向上させ、最終的に打率.304、49本塁打、129打点で二冠王に輝いた。
しかし、首位打者の青木宣親、シーズンMVPの和田一浩、シーズン安打数の日本新記録を挙げたマット・マートンの3人に阻まれ、ベストナインには選出されなかった。
打撃二冠のタイトルを獲得しながらベストナインに選ばれなかったのは、1960年の藤本勝己に次いで二人目である。
▶︎2011年
5月1日、4番としての連続先発出場の記録を416試合として松井秀喜を抜き、球団新記録を達成する。その後記録は469試合まで伸ばした。
連続試合出場は985試合を記録し、外国人選手としては歴代最長記録となった。
8月5日安打を放ち、NPB通算1793安打を記録。タフィ・ローズの記録を抜き、歴代外国人選手の通算最多安打記録を更新した。
シーズン成績は、打率.279、本塁打23、打点73と、打撃三部門で来日以来最低の記録となった。
10月31日のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ終了を以て、正式に退団を表明した。
この年から導入された統一球によって本塁打が減少したことで大量得点を期待できず、いかに守備で失点で防いでいくかの戦いになったことでラミレスの守備難はネックとなた。
ラミレス自身は打撃でチームに貢献したかったが、チームとしては守備面を重視する方針となっていたため、チームにとって絶対的な存在ではなくなっていた。
2010年10月8日 巨人対ヤクルト ラミレス49号 - YouTube
⑤DeNA時代
巨人退団後の12月8日、横浜DeNAベイスターズが獲得を発表し、入団会見を行った。
背番号は、ヤクルト時代と同じ3。
▶︎2012年
オープン戦での肉離れにより開幕スタメンこそ逃すも、4月4日より新チームの4番として定着。
しばらくは調子が上がらない時期が続いたが、徐々に調子を上げ、7月5日、日米通算2000安打を達成。(アメリカでは86安打・日本では1914安打を記録。)
7月14日、外国人選手最高記録となる12年連続2桁本塁打を達成。
7月にはDeNA移籍後初、通算9回目の月間MVPを受賞した。3球団で月間MVPを受賞するのは史上初。
▶︎2013年
トニー・ブランコの入団により5番に回り、4月6日のヤクルト戦で元チームメイトの石川雅規から本塁打を放ち、外国人選手枠で入団した選手としては史上初となる、日本での通算2000安打を達成した。
巨人退団の要員となった守備難が顕著になってきたことに加え、偉業達成以降は打撃面でも精彩を欠いたことから、スタメン落ち。
代打や交流戦での指名打者として出場していたが、代打には不慣れこともあって22打席連続凡退するなど結果を残せず、来日初の二軍降格となった。
9月27日に戦力外通告を受けていたことが判明し、10月2日は球団側が14年シーズンは契約しないことを正式に発表した。
2013.4.6 ヤクルトーDeNA 2回戦 ラミレス2000本安打達成試合。 - YouTube
▶︎NPBでの個人年度別成績はこちら※太字はリーグ最多
年 度 | 所属球団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 刺 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 |
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2001 | ヤクルト | 138 | 547 | 510 | 60 | 143 | 23 | 0 | 29 | 253 | 88 | 1 | 2 | 0 | 5 | 27 | 5 | 132 | 11 | .280 |
2002 | ヤクルト | 139 | 569 | 539 | 65 | 159 | 25 | 0 | 24 | 256 | 92 | 0 | 4 | 0 | 4 | 22 | 4 | 146 | 10 | .295 |
2003 | ヤクルト | 140 | 614 | 567 | 105 | 189 | 34 | 3 | 40 | 349 | 124 | 4 | 6 | 0 | 7 | 34 | 6 | 104 | 14 | .333 |
2004 | ヤクルト | 129 | 557 | 525 | 79 | 160 | 30 | 2 | 31 | 287 | 110 | 2 | 0 | 0 | 2 | 23 | 7 | 118 | 22 | .305 |
2005 | ヤクルト | 146 | 629 | 596 | 70 | 168 | 19 | 1 | 32 | 285 | 104 | 5 | 1 | 0 | 3 | 23 | 7 | 121 | 13 | .282 |
2006 | 東京ヤクルト | 146 | 636 | 603 | 79 | 161 | 28 | 2 | 26 | 271 | 112 | 0 | 0 | 0 | 10 | 19 | 4 | 104 | 28 | .267 |
2007 | 東京ヤクルト | 144 | 628 | 594 | 80 | 204 | 41 | 3 | 29 | 338 | 122 | 0 | 0 | 0 | 5 | 23 | 6 | 106 | 14 | .343 |
2008 | 読 売 | 144 | 600 | 548 | 84 | 175 | 28 | 0 | 45 | 338 | 125 | 1 | 0 | 0 | 3 | 39 | 10 | 90 | 20 | .319 |
2009 | 読 売 | 144 | 608 | 577 | 66 | 186 | 35 | 0 | 31 | 314 | 103 | 4 | 3 | 0 | 6 | 21 | 4 | 88 | 12 | .322 |
2010 | 読 売 | 144 | 606 | 566 | 93 | 172 | 28 | 0 | 49 | 347 | 129 | 1 | 2 | 0 | 7 | 21 | 12 | 98 | 14 | .304 |
2011 | 読 売 | 137 | 515 | 477 | 39 | 133 | 12 | 1 | 23 | 216 | 73 | 2 | 1 | 0 | 5 | 30 | 3 | 72 | 9 | .279 |
2012 | 横浜DeNA | 137 | 504 | 476 | 40 | 143 | 25 | 0 | 19 | 225 | 76 | 0 | 0 | 0 | 3 | 18 | 7 | 60 | 18 | .300 |
2013 | 横浜DeNA | 56 | 139 | 130 | 6 | 24 | 0 | 0 | 2 | 30 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | 20 | 7 | .185 |
通 算 | 1744 | 7152 | 6708 | 866 | 2017 | 328 | 12 | 380 | 3509 | 1272 | 20 | 19 | 0 | 61 | 308 | 75 | 1259 | 192 | .301 |
⑥BC・リーグ・群馬時代
横浜DeNAから戦力外通告を受けた後も、NPBの他球団で現役を続けることを希望。
2013年の12月には、埼玉ライオンズが守備に就かない指名打者要員としてラミレスの獲得を検討していることが一部で報じられたものの、獲得には至らなかった。
2014年、2月13日にベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスが、ラミレスを打撃コーチ兼任外野手として入団させることを発表した。
背番号はヤクルト・DeNA時代と同じ3。
打撃コーチ料を含めた推定年俸は、巨人時代の最高額(5億円)の100分の1に相当する500万円。(選手としての月給にはリーグ規定上限額の40万円を適用)
ラミレスにNPB復帰への意向が強いことから、群馬との契約には「シーズン途中にNPBの球団から獲得を打診されたばあには契約を解除できる」という旨の付帯条項が添えられた。
入団した群馬では、4番・指名打者として5番カラバイヨとの強力クリーンナップを形成。
4月にはまたも西武が獲得を検討しいると報道されたものの、契約は見送られた。
6月23日に球団がラミレスの緊急帰国を発表。帰国に至って経緯として、「家族の病気療養に付き添うため」としている。
その後、チームに再合流して7月11日の試合より一度復帰するも、動揺の理由のため9月4日に球団が2回目の緊急帰国を発表した。
2度目の帰国後は、復帰することなく、シーズンを終えた。
シーズン通算では、45試合の出場で、打率.305、7本塁打、38打点。
10月14日に、球団を通じて現役引退を表明した。
群馬ダイヤモンドペガサス VS 信濃グランセローズ 18May'14@城南球場 - YouTube
⑦群馬シニアディレクター・オリックスアドバイザー時代
2014年10月29日から、群馬のシニアディレクターに就任した。
就任後の11月9日には、第1回トライアウトを視察。この視察をきっかけに、DeNAから戦力外通告を受けていた元チームメイトの伊藤拓郎を群馬に入団させるなど、編成面で手腕を発揮していた。
2015年6月22日からは、オリックス・バファローズと3ヶ月間の契約を結んだうえで、同球団の巡回アドバイザーを兼務した。
群馬で指導していたフランシスコ・カラバイヨとヨヘルミン・チャベスが同年に相次いでオリックスへ移籍したことによる就任だった。
外国人選手のサポートを中心に、月に数回のペースで一・二軍を指導していた。
しかし、オリックス同球団では2015年10月5日に、ラミレスとの巡回アドバイザー契約を延長しないことを発表した。
球団本部長の瀬戸山隆三によれば、契約期間の満了を機に別のポストへの就任をラミレスへ打診したところ、就任の辞任と退団の申し出があったという。
【タイトル】
・首位打者:1回(2009年)
・本塁打王:2回(2003年、2010年)
・打点王:4回(2003年、2007年、2008年、2010年)
・最多安打:3回(2003年、20007年、2009年)
【表彰】
・最優秀選手:2回(2008年、2009年)
・ベストナイン:4回(2003年、2007年、2008年、2009年)
・月間MVP:9回(2003年4月、2004年9月、2007年9月、2008年5月、2009年8月、2010年5月2012年7月)
・セ・リーグ会長特別賞(2007年)
・オールスターゲームMVP:1回(2007年 第1戦)
・オールスターゲーム・ベストバッター賞:1回(2009年第1戦)
・セ・リーグクライマックスシリーズMVP:1回(2008年)
・日本シリーズ敢闘選手賞:1回(2008年)
・東京ドームMVP:1回(2010年)
・連盟特別賞:1回(2010年)※8年連続100打点のプロ野球新記録
・優秀JCB・MEP賞:1回(2007年)
【来季からDeNA監督!!】
2015年10月19日に、DeNA球団がラミレスの一軍監督就任を発表した。
同球団の監督に外国人が就任するのは前進時代も含めても初めてである。
DeNA球団のOBとして監督に就任するのは、球団史上初となる。
▶︎記者会見
ニュース | アレックス・ラミレス新監督 就任記者会見 | 横浜DeNAベイスターズ
▶︎実は知将?!
▶︎中畑氏の後継者に必要な要素とは・・
ラミレス氏DeNA新監督決定 明るい中畑氏の後継 - 野球 : 日刊スポーツ
【ラミちゃんお得意の、パフォーマンス!!!】
本塁打を打った際やヒーローインタビューの際に、パフォーマンスを行うことで知られている。
芸人の芸を取り入れたパフォーマンが人気だった。
球団マスコット(ヤクルト:つば九郎、巨人:ジャビット)とコンビでアクションを行っていた。
ラミレスによれば、元々はキャンプ中にロッカールームで選手数人が互いに「アイーン」をやって遊んでいたのを目撃した際に、同僚だった度会博文から「お前もやってみろ」と言われて、その日の練習中に子供の前でやってみたところ、大変好評だったのがきっかけだという。
▶︎We are One!!ガンバレ!ニッポン!
▶︎そんなの関係ねえ!オッパッピー!ゲッツ!
▶︎パフォーマンス集